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Posted on 2006-5-30 (火) by テル.
Categories: 日記, 独り言.
誕生日が来る度にいつも信じられないのだが、今回の誕生日ほど感覚的に受け入れがたいものはない。どうしても自分が50歳だとは信じられないのだ。
織田信長じゃないけれど、人生50年と言われた時代もあるのだから、もはや一人生終えたことになるわけだ。しかし、感覚的には30代のような感じのままだし(しわも白髪も増えたが)、精神年齢的にはもっと幼いのではないかと思われる。身体は衰えているのだろうが、もともと体力に自信はなかったので、別に違和感はない。
一番嫌なのは、この50歳という実年齢と自分自身の感覚のずれだ。40歳はまだなんとかなるけれど、50歳となるとずっしりくるのはなぜだろう。40歳は壮年という感じだが、50歳は初老な感じだからか。
いきなり話題を変える。
最近、江原啓之氏の本を連続して読んでいるのだが、今は『スピリチュアルな人生に目覚めるために』だ。江原氏は彼の著書の中で、10年後の自分をイメージしなさいとよく言う。今から10年後は60歳。うーん、イメージできない。60歳になった時に、なりたい自分てなんだろう。もはやそんなことを語る年でもないのだから仕方ないのか。それとも、いつまでも夢を語るのがいいのか。
一区切りとして10年後の自分をよーく考えてみようと思う。
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Posted on 2006-2-20 (月) by テル.
Categories: wordpress, 音楽, 独り言.
昨日から取り憑かれたように「彼方の光」を聴き続けている。
自宅から送ったファイルを職場のパソコンでも無事開くことができた(パソコン5個まではいいらしい)。
聴きながら、サイトのデザインで偶然いいのを見つけたので、本サイトのテーマを変えてみた。
なんとなく、「彼方の光」の雰囲気に合うような気がしたのだ。
Theme ‘LactPlate’ for WordPress 1.5
ネットで検索をかけてみると、ドラマ『氷壁』は視聴率も芳しくなく、毀誉褒貶が甚だしいようだ。感じ方は人それぞれだと思う(などというと、どこかのコイズミのようで嫌になるが)。
しかし、人を好きになることに理屈というか、理由があるだろうか。
自分でもなぜかわからない力が作用して、ある瞬間にどうしようもなく好きになってしまうのではないのか。
そして、まさに好きになってしまうその瞬間には、その人が人妻であるかどうかなど、二の次、三の次、というか、認識の外にあるのではないか。
たいていは、気がついたら、ある人を好きになっていて、自分でもびっくりしたという感じなのではないだろうか。
ともあれ、この「彼方の光」は名曲だ。このドラマの魅力の多くをこの曲が担っているのは間違いない。しかも、映像と違和感がない。ドラマのテーマと寄り添っているからだろう。
孤高の山への愛と、孤独な人間への愛。手が届くかどうかわからないものへの憧憬と、挑戦。
どうも舌足らずで嫌になるのだが、祈りにも似た気持ちをよく表現した曲だと思う。
祈りは普遍的なものだ。
気高い山の風景に人は祈りを捧げざるをえないのではないか。
愛する人もまた、そのように祈りの対象になる。
手の届くところにいる人より、はるかに遠い人への思いが強くなることはありえることだ。
それが友人、それも命がけの友人の慕っていた人だということが、むしろ拍車をかけることになる。
彼が救えなかった人を、自分が替わりに救わなければならないというような、秘めた使命のようなものも感じているのかもしれない。
ドラマ『氷壁』は、まだまだいろいろ考えていかなければならない人生のテーマを提供してくれている作品なようだ。
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Posted on 2006-2-18 (土) by テル.
Categories: 独り言.
いよいよ佳境に入ってきた感のある、NHK土曜ドラマ『氷壁』。
井上靖の原作を読んだことはないが、その素晴らしさを髣髴とさせる緊迫感のあるドラマになっている。
鶴田真由の演技がいい。だんだん自分を取り戻していく、自分を自分として生きていいのだと思い始める、その心の揺れをうまく表現していると思う。愛していることに気がつくことで、美しくなっていく女性の変化を上手に出している。きれいになっていくのがわかる。
諦めきれないものを諦めようとすることの際どさ、切なさ。そして、その際どさが生み出す無謀なエネルギー。
「愛している」という言葉の美しさ、過激さ。
このドラマを意識し始めたのは、その主題歌が耳に残っていたからだ。
LIBERA-リベラ-という少年合唱団(公式サイト)の歌がとても美しくて、はまり込んでいる。「彼方の光」(1分5秒の視聴ファイルはここ)。ドラマ、というより、K2という山の景色にぴったりだと思う。
それにしても、どうして山は人を惹きつけるのか。山屋ではない私の言うべきことではないが、やはり、その神々しさにあるのではないか。
ドラマのなかで流されるK2の映像は、人間存在をはるかに超えるものの神々しさに満ちている。
私はそれを見ているだけで満足だが、その場所に行ってみたいと思う人もあるのだろう。その頂上からの景色を見てみたいと思う人もあるのだろう。
「下から見る高さと上から見る高さはこんなに違うのね」とはドラマのなかの台詞だが、まさしくその違いを体験したいという欲望が人を山へ登らせるのかもしれない。
その道のりが険しければ険しいだけ人はそこへの執着を募らせるのかもしれない。
ドラマの余韻に浸りながら、つまらぬことを考えた。
この余韻に比べたら、オリンピックだのなんだののニュースはほんとうにどうでもいいことに思えた。
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Posted on 2005-3-20 (日) by テル.
Categories: 独り言.
あるメルマガで紹介されていた「1日2食健康法」というサイトを読んで愕然とした。そして、グーグルで「ダイオキシン、除草剤」で検索してヒットした「間違いだらけの健康常識」というサイトでいよいよヤバイという感じになった。
寿司とか焼肉とか、もう積極的には食べられない。ご飯と味噌汁に簡単な副菜の一汁一菜を基本に、1日2食で行きたいと思う。
グルメ番組花盛り、何を食べれば健康にいい、そんな情報ばかりが氾濫している。そして、毎日毎日、おかずを何にしようか、主婦(主夫)は頭を悩ませている。料理本も手を変え品を変え、本屋にあふれている。
しかし、「間違いだらけの健康常識」でこう言われているのには、深く頷かざるをえなかった。
人間には確かに食べる楽しみはありますが、食べるだけが楽しみという方は人生観を変えて下さい。人間は食べることよりもっと楽しくワクワクする目的を持つべきです。食べるのは何でもよくなります。地球や人類のためになる大きな目的を明確に持つべきです。人間は長く生きるのが良いとは言いきれませんが、生涯かけて完成させるべき大きな地球的目的を明確に持たないと、人間として生きている価値がなくなってしまいます。
また、
年間、何千万人という人が地球上で餓死しています。日本人は年間、何千万トンという食事を残飯として捨てています。こんな贅沢な食事が許されて良いでしょうか。ご飯と味噌汁の粗食が最も健康で長生きできることが明確なのに、どうして病気の根源になるオカズの過食を続けるのでしょうか。心の空白を食の楽しみで埋めているだけです。もっと大きな喜びは人類愛です。地球と人類を愛するそのための創造的活動は食の楽しみとは比較になりません。
粗食をすれば、頭もよくなり、肌は美しくなり、病気は治り、健康で長寿になる一石四鳥にも五鳥もなる素晴らしい食事法です。粗食、少食があなたを救い、人類を救うのです。運勢も最高になります。あなたの願う、望む地球的大目的も実現に向かうことでしょう。(下線は引用者)
そして、
食の楽しみが人生の大きな部分を占めているような人生観では人生は駄目だと思います。食事をする時間がもったいない、食は人生の目的を果たす為のエネルギーを補給する程度のものだという考えが必要です。
まったくそのとおりではないか。人が自分の仕事や好きなことに熱中している時、寝食を忘れるという。つまり、食べる時間も惜しんで生きることのできる人生の目的を持っているかどうか、問われているのだ。
一汁一菜の食事で健康になり、食費も節約でき、人類を飢餓から救う一助にもなるのだから、ほんとうに一石何鳥にもなる。
今のところ、朝食抜きから始めているのだが、夕食の粗食化をなんとか実現したいと思っている。
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Posted on 2005-2-18 (金) by テル.
Categories: 独り言.
久々の更新が「欲しい!」というさもしいものですみません。偶然見つけたサイトにスヌーピーの限定コレクション「ピーナッツコレクション」があり、その中でも「ハッピータイム 限定版メモリアル・ウォッチ&クロック」というのが気に入ってしまった。全世界で5000セットの限定版ということだ。
家には北谷のジャスコで買ったピーナツの掛け時計があるが、時計を見るときはたいてい気が急いているものなのに、この時計を見るとふと心が和んでしまう。
このメモリアル時計も和ませてくれそうだ。おまけにショップオリジナルの磁器製スタンドもかわいい。

[I・E・I オンラインショップより引用]
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Posted on 2004-7-26 (月) by テル.
Categories: 独り言.
沖縄に来て2年になる。このところ、あるわだかまりに耐えるのがつらくなってきた。
どういうわだかまりかというと、私は沖縄県民にはなったが、沖縄人(ウチナンチュー)ではない。いわゆる「島ナイチャー」と呼ばれる、内地(出身はもう一つの外地である北海道なのだが)から沖縄に移住した人間だ。沖縄人と結婚して沖縄に来たので、親戚などからは「ウチナームーク」と呼ばれたりもする。いずれにせよ、沖縄人から見れば、外から来た人間の一人に過ぎない。
そんな人間が沖縄のあれこれの問題について口を差しさむのはどうかと、喉から出そうになる言葉をいくつも飲み込んできた。
しかし、このところの新聞報道から、どうにもがまんがならなくなっている問題がある。沖縄へのカジノ誘致の問題だ。7月23日付『沖縄タイムス』に「施設名は『琉球楽園』」という記事が出た。
県内へのカジノ導入を目指す沖縄ゲーミング・エンターテイメントワールド調査会(國場幸一郎会長)と、オーストリア政府系企業のカジノ・オーストリア・インターナショナルは二十二日、カジノを含めた大型観光施設「琉球“楽”園」の建設構想を那覇市内のホテルで発表した。総事業費約一千億円をかけ、敷地面積約四十九万五千平方メートルのテーマパークを展開する計画。ホテルやカジノに加え、与那国島沖の海底遺跡を再現した施設などを設置。沖縄独自の文化・歴史を強調する。
内地出の人間に沖縄のことなど心配ご無用と言われそうだが、こんなものを作ってなにが「琉球楽園」なのだろうか。結局は、この調査会の会長の企業「國場組」が中心となるであろう地元ゼネコンのお金儲けのタネに過ぎない。彼らの仕事はとどのつまりは環境破壊だ。沖縄に観光に来る人びとが何を求めているのかについて、彼らはどんな研究をしているのか。
「琉球“楽”園」は、「海人のこころ」をコンセプトに、沖縄の自然・文化的な素材を活用する。
そんな子供だましの施設を巨費を投じて作ったうえに、カジノでさらに一儲けという意地汚い欲望しか見えてこない。
「海人のこころ」を言うなら、今すぐあらゆる埋め立て工事を中止して、美しい海岸線を取り戻す運動をするがいい。辺野古沖の基地建設にも大いに反対せよ。海も珊瑚も失って、なにが「海人のこころ」だ。馬鹿らしい。自分たちの島の持つ無限の魅力をただ観光資源として利用することしか考えず、しかもその資源の源泉を日々破壊し続けていることには目をつぶっている。なんというご都合主義。いいとこ取り。
こんなことしか考えていないと沖縄に未来はない。青い海と空を破壊から守り、より美しく育てようとしないかぎり、沖縄はコンクリートだらけの島になるだけだ。どこにでもあるようなものを求めて誰が来るだろう。沖縄にしかないものを求めて人びとはやってくるのだ。その心すら奪おうとするこの計画には心底絶望する。
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Posted on 2004-6-22 (火) by テル.
Categories: 独り言.
日々の暮らしに追われ、今日という日がつつがなく終わらないと、明日のことも考えられない。明日は明日の風が吹く。刻々と変化する相場というものが経済を象徴するかのように思わされて久しい。24時間そんなものに追われるようにして暮らしているうちに、一年の計だとか、10年計画だとか、100年の計だとか、長いスパンでものを考えることに価値を見出さなくなった。というか、そもそもゆっくり物事を考える暇がなくなった。相場の先を読むと言ったって、3ヵ月、6ヶ月の話でたいしたことはない。それだって当たるも八卦当たらぬも八卦で、天気予報のようなものだ。それは物事を考えているのではなく、データ処理をしているにすぎない。それを考えているのだと勘違いしている。
うっかりしていたのだろうか、先の国会で有事関連7法案が成立し、いよいよ戦争のできる「普通の国」へと舵が切られたようだ。あれよあれよという感じ、というより、いつの間に、という感じだ。分かる人は分かっていたのだろうが、それでも止められはしなかった。うっかりしていても、しっかりしていても同じだったのか。どうしたら、止められるのか分からないまま、止めることができずに終わった。これからどうしたらよいのか。
さらにどさくさにまぎれるように小泉は多国籍軍への自衛隊参加をブッシュと約束してきた。これを独裁といわずしてなんというのか。国論を二分している自衛隊派遣問題についてあまりにも配慮のないやり口ではないか。まだ自衛隊は軍隊と認められたわけでもないのに、多国籍「軍」に参加させるという。「参加」というのはこういう意味だとか馬鹿げた講釈まで始める始末。
しかし、こんな馬鹿たちによって日本がおかしくされるのを座視している分けにはいかない。どう闘ったらいいのかわからないが、ともかくこうした動きとは闘わなくてはならない。今、命を削るようにして辺野古で座り込みを続けるおじい、おばあに続かなくてはならない。
日々の暮らしの中でできることは限られている。こんな文を書くのにも一汗かくような始末だ。考えること、考えたことを表現することにもっと慣れていかなくてはならない。われわれの憲法には思想の自由も、表現の自由も約束されている。思想は表現されなければ思想とはならない。心の中で百万遍唱えても、それは何物でもない。表現して、外に押し出し、他人の評価にさらされてはじめて、思想は思想となる条件を得るのである。
その意味では、こういうブログというツールを活用しない手はない。パソコンと電話回線さえあれば、世界に自分の思想を表明することができる。こんなふうに書いているうちに、なんとか憂鬱な気分も治まってきた。表現するということはこういう効果もあるらしい。
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Posted on 2004-6-4 (金) by テル.
Categories: 独り言.
一瞬、一瞬が取り返すことのできない一回限りの時間である。起きてしまった出来事は二度と取り戻すことはできない。失われた命は還ってこない。あの瞬間から、彼らにはもう二度とそれ以前の時間は戻ってこない。世界は変わってしまった。われわれの住んでいる世界は不可逆なものであり、リセットなどできない。
井上ひさしさんの『きらめく星座』という芝居を初めて見たのはNHKテレビでだった。1985年の公演を録画したものらしいので、その年か翌年の番組だったろう。今は亡き名古屋章の名演、斉藤とも子のかわいらしかったことなど思い出す。そのなかで、すまけい演じる広告文案家が人間の広告を作るとしたらと言って語り出す台詞のなかに、この「ピカピカの奇跡」が出てきた。
斉藤とも子演じる「みさを」が絶望的な世の中に生まれてくる赤ん坊がかわいそうだと言って、漬物石をお腹にぶつけて中の赤ん坊を殺そうとする。そこにかの広告文案家が、人間というものは奇跡の連続の末にある、奇跡のなかの奇跡なのだから、そんなまねをしてはならないと言って止める時に出てくる言葉だ(手元に台本がないので正確ではない。もしかしたらまったく別の言葉かもしれない。しかし、こういう意味だったと思う)。
一人一人が掛け替えのない「ピカピカの奇跡」なのだということ、この事実を認めるところから、すべての議論を始めようではないか。子どもたちには、お前たちも私たちも一人一人が「ピカピカの奇跡」なんだといつも言い聞かせようではないか。そうしたら、世の中はこんなかたちにはならないんじゃないだろうか。
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Posted on 2004-5-27 (木) by テル.
Categories: 独り言.
はなゆーさんのところで、嫌なニュースを発見。
軍事ビジネスの雄・カーライルがPHS最大手DDIポケットを買収!
長い間付き合ってきたDDIポケットだが、どうしよう。お別れしなければならないかな。軍需産業に吸収されてはなあ。DOCOMO携帯の一元支配が嫌で、というより携帯の電波は強力で発ガンの可能性も否定できないなどという話を真に受けて、PHSの微弱電波で細々と通話してきたのだが、どうしようかな。メールのやり取りも通話料に含まれていてタダなので非常に便利なのだが。よーく考えよう。
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Posted on 2004-5-23 (日) by テル.
Categories: 独り言.
拉致被害者の家族5人の方の「帰国」について、どうも違和感がぬぐえない。
首相は向こうに行って帰ってきたのだから「帰国」だが、5人の方は向こうで生まれ生活していたれっきとした朝鮮民主主義共和国の国籍を持った人たちで、言わば外国人が「来日」したということなのに、なぜマスコミはどれもこれも「帰国」という言い方で統一されているのか。
拉致被害者の方たちの心情に慮り、「帰国」なのだと言いたい気持ちも分からなくはないが、でもやはりおかしい。逃避日記の「帰国って」でも言われているが、「帰国」という言い方であいまいにされてしまうのが、来日した5人の意思だ。
連れて行かれたものの原状回復=「帰国」ということにしてしまえば、5人の意思確認は不要になると言えるかもしれない。しかし、5人は連れて行かれたのではない。生まれてこのかた、朝鮮民主主義人民共和国民として生きてきたし、今もそうなのだ。そんな彼らが、突然日本の連れてこられ、これからは日本人として生きて行けと言われる。それを本人たちは望んだのだろうか。報道は一切そのことに触れていない。
子どもにも人生を選ぶ権利はある。家族の都合でのみ決めてよい話ではないだろう。成人した大人にたいしてまで自分の住むところの選択もさせないのは、いくら家族だからといって許されることなのか。向こうにいては不幸せ、日本に来れば幸せになれると相場が決まっているわけでもない。逆であることも大いにありうるのだ。
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